伊藤長七

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伊藤長七初代校長

伊藤 長七(いとう ちょうしち、1877年4月 - 1930年)は、日本の教育者。東京府立第五中学校校長(初代)

略歴

伊藤長七

長野県諏訪郡四賀村(現・諏訪市)出身。1877年(明治10年)に父孫右衛門、母りかの三男として生まれる。1898年に長野師範学校を卒業してしばらく教壇に立ったのち、1901年に東京高等師範学校に入学。卒業後は同校の教諭となり、木崎夏期大学の開催などに尽力した。

東洋英和女学校『110年史』掲載の明治39年3月卒業式の写真に、伊藤長七らしき人物(後列中央)あり。

明治38年4月に東洋英和女学校に着任し、担当教科は「教育」、大正7年12月に離任[1]。当時の教科課程表によると、「教育」は高等科の科目である。東洋英和女学校に高等科が設置されたのは明治35年度から大正6年度。明治32〜34年度は「補充科」、大正7年度からは東京女子大学に合併。すなわち、伊藤長七が東洋英和女学校に在籍したのは高等科が存在していた時期にほぼ重なる。なお、2014年(平成26年度)上半期にNHKで放送された連続テレビ小説「花子とアン」に登場した柳原白蓮(宮崎燁子)は明治41年東洋英和女学校入学、明治43年英語本科卒業。村岡(安中)花子は、明治36年東洋英和女学校に編入学(10歳)、本科から高等科に進み大正2年3月高等科卒業。(大正3年とする記述もあり。)

自由主義的な教育思想を持ち、1919年に後藤新平や沢柳政太郎によって東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)の初代校長に抜擢されると、「立志・開拓・創作」の校是や理化学重視の教育を打ち立て、府立五中の創始者として基礎を築いた。

海外渡航経験が非常に豊富であり、アメリカのハーディング大統領との単独面会の実現や、海外からの帰途に「船を間違えた」としてヨーロッパやシベリア方面をまわったことで知られている。島崎藤村の代表小説『破戒』に登場する土屋銀之助という教師は、伊藤長七がモデルである。


世界教育会議集合写真(1927年8月10日)

エピソード

  • 年に一回「創作展」を講堂で開催し、生徒より発明工夫を目的とする作品を募集、展覧し、朝野の来賓の喝采を浴びたものです。これは現在の各大学・高校・中学に於ける「文化祭」の先駆をなしたものでありましょう
  • 皇室を尊崇する事は人一倍で、元旦に生徒を宮城前に集めて遥拝を実行していました。校長新案ご自慢の体操「熊鶴亀犬猿(ユウ・カク・キ・ケン・エン)」を踊らされるのでした
  • 全国の中学校中、初めてその制服として背広姿にネクタイを切るというスタイルを定めたのも、「常に進取の精神に則り、君等生徒諸君をして紳士としての自覚を促し、紳士として処遇する」即ち、己の言動には責任をとれと言うことであり、礼節を重んじ、法に忠実であれという意味でした
  • 当時の中学校は男子のみで女性の先生は皆無の時代、米国から夫人の英語の先生を迎え入れたことは特筆大書すべきである。校長曰く「諸君は将来外国人と交際しなければならん。よって、外国の子どもたちと文通をしない」と吾等に英語の時間に英語による便りを書かせ、私たちは英語の女子先生に添削を受けて発送したものでした。当時の中学校長としては珍しくも自ら率先米国を訪問し、米国教育事情を視察し、帰朝したのでした

以上は紫友同窓会報No.10「感銘をうけた恩師たち」(岩崎晶(1回卒))

50周年記念誌半世紀の座談会「伊藤校長と自由教育」で、当時校長の眞田幸男(旧制3回生)と当時教員の三和一雄(旧制3回生))、川口正平(旧制8回生)は次のように伊藤を回想している。

真田 朝礼は非常に長いお話だったということだけは今でもはっきり焼きついています。

川口 我々の時代でも朝礼はとにかく長くて時々校長は夢中になり、そのうち後の方で「校長、そのうち泣くぞ泣くぞ」なんて言ってると実際泣くんですねえ。

(中略)

三和 伊藤先生は大変感動的な人で話が始まるとそれからそれへと移って、終始まとまった話をされる人ではなかったですね。したがって記憶するには非常に不便で、余程関係のある話でないと覚えられない、但し一緒に泣きたくなる程感激しましたね。

作詞

関連項目

在任 後任

1919年度 (大正8年度)

1920年度 (大正9年度)

1921年度 (大正10年度)

1922年度 (大正11年度)

1923年度 (大正12年度)

1924年度 (大正13年度)

1925年度 (大正14年度)

1926年度 (大正15年度)

1927年度 (昭和2年度)

1928年度 (昭和3年度)

1929年度 (昭和4年度)

1930年度 (昭和5年度)

落合寅平

関連事項

外部リンク


脚注

  1. 『東洋英和女学校五十年史』 1934(昭和9)年12月発行(編集後記は村岡花子、印刷所は村岡儆三の青蘭社)