学生歌

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学生歌 (がくせいか) は昭和25年5月の小石川高校新聞の小論「新校歌を作れ」をきっかけに始まった学生主導による新校歌作成の運動の結果にできた歌である。昭和33年にようやく完成をみたが、6年の間に熱量が低下したのか、結果的には新校歌となることはなかった。

歌詞・楽譜

新聞「創作」昭和33年4月7日第31号より

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きっかけ(昭和25年)

小石川高校新聞(1)」10号(昭和25年5月29日)小論「新校歌を作れ」

新聞「小石川高校新聞(1)」10号(昭和25年5月29日)小論「新校歌を作れ」

  • 生活とともに歌える校歌を持たず、新入生は未だ校歌を知らない
  • 創立時と現在での社会的背景の変化から、その意図の焦点や表現方法にも矛盾が感じられる
  • 改正よりも新作成を適切な策として提唱

同じ新聞より

  • 昨年来一部の見識ある生徒の間でその反時代的性格を認め改正運動を起こす動きあり。
  • また学校当局でも都教育庁へ改正願いを出すという話が出ていたがその後立ち消えに。
  • 5月8日登校した1.2年生の半数570名に校歌(と100分授業)についてのアンケートを行ない、校歌を『改正すべし』が約60%。
  • 改正賛成の主な理由 1.時代に合わない 2.当然だ、第一今まで存続し何回も平気で歌われたことがおかしい。 3.メロディーが古い
  • 改正反対の主な理由 1.面倒くさいから 2.少し位時代に合わなくても伝統を守るべきだから 3.歌詞が勇ましくてよいから
  • 校長先生のお話
    • 我々の間でも勿論改正の動きはある。
    • 色々な忙しい事態(校舎、運動場)を片付けてからこの問題に手をつけようと考えている。
  • 某社会科教官の御意見  1 時代に左右されない表現を 2 6番が問題 3 もっとよい校歌を諸君の手で
  • 先輩某氏の御意見  1 問題になる箇所が多くある  2 メロディ歌詞ともに新しいのを

生徒の一部でこのように新しい校歌を求める機運が高まり、彼らは学校当局(校長)も同じ方向性で動いていると感じたようである。しかしこの時期の校長であった澤登哲一の様子は70周年誌の497ページで次のように回想されている。

『生徒の新聞記者が、校歌の旧時代的表現を改めるだけでなく、校歌の根本精神から変えてもらいたいと理屈をこねたら、校長は即座に、オレもあれは嫌いだよ、早速あした都へいってくるといったという。生徒が来て、校歌を変えるのは校長が教育長へいってくるだけでいいんですか、と驚いていたが、案の定それっきりで校長からは何のお達しもなかった。その話を職員会議にも出さなかったのは、勿論である。』

校長自身は実のところあまり乗り気ではなかったようである。また同じ70周年誌の494ページには当時新聞とは別に雑誌「開拓」の編集部がさらに大規模なアンケートを実施したところ、そもそも校歌を知らない人が38%もいること、知っている人の42.7%は現状校歌を支持していることなど、新聞のアンケート結果とは異なる見解を出したという。

昭和26年11月、職員会では従来のままにするか、新しい校歌を作るか部分的に直すかなどの議論を行なったがはっきりした結論は出ず、「近く自治会で行なう世論調査を見た上で、校歌改訂についてあらためて検討」ということになった。自治会は世論調査をサボった。職員室でも問題はペンディングなまま放置された。[1]

経過(昭和30年代初頭)

小石川高校新聞 (昭和30年7月3日第21号)論説「創作展に総合性を、夜祭に学生歌を」

小石川高校新聞 (昭和30年7月3日第21号)「創作展に総合性を、夜祭に学生歌を」において、「夜祭も同時に行いその時歌う学生歌を是非今年は作りたい。たとえば大学の寮歌はその時々の心を歌いだしたものであるからだ。」という趣旨の論説が掲載された。

昭和31年1月の自治会で学生歌を全校から募ることに決定した。主催は職員会と生徒自治会。歌詞の締切日は3月10日で、その後の終業式の場で歌詞が発表されることや、曲締め切りは4月上旬の予定が発表された。提案自体は職員会によるものではあるが、前々より校歌のように堅苦しくなく、学生らしい歌をつくろうとの声が生徒の中に多数見られたこともある。(昭和31年2月9日小石川高校新聞第22号)

小石川高校新聞第23号(昭和31年6月21日)の記事に校歌を知らぬという新入生の声が掲載された。

  • 学校に入って2ヶ月になるがまだ一度も校歌を聞いていない。
  • 2,3年生にきいても全部を知っている人はほとんどなく、1番だけでも知っている人は稀である。
  • 例年だと入学式あるいは新入生が集まった席上で上級生が歌って聞かせたというが今年はどうしたのだろう。
  • 年々歌い伝えられる校歌の基にその学校の校風伝統が生まれるのではないだろうか。
  • 今からでも遅くはない。音楽の教師が、それができなかったら担任の教師が歌ってでもよいから
  • 全校生、特に1年生に教えるべきだ。

同新聞には学生歌の応募状況にも触れられている。どうやら締め切りが延期になったということだと思われる。

  • 締め切り6月30日
  • 有志よりすでに2,3応募があった。
  • 終業式に一番よい作品を発表し、作曲のほうは2学期にはいって募集する。

新聞「創作」25号(昭和31年11月1日)「学生歌今月中に歌える?」

  • 1学期末の選考委員会で歌詞決定、発表され、引き続いて曲を募集したが9月の締切日まで1曲しか応募がなく運動会には間に合わなくなった。
  • その後3曲の応募があり10月の自治会で選考方法が決定し完成の気配が見える。
  • 音研に4曲を歌ってもらい録音したものを選考メンバー(福沢先生を含む、未確定)でき投票。
  • 合う曲がなかった場合、応募曲の一部を修正するか、曲の作成を福沢先生あるいは適当な人に委任するようになるかもしれない。

新聞「創作」27号(昭和32年5月)「新入生の雑感」

  • 生徒会案内に、いかにも男子校らしい校歌も載っていた。なにやら難しい漢字の入った歌だが新入生に歌って聞かせてくれるのかと思っていたがそれもしない。

新聞「創作」29号(昭和32年9月)論説「学生歌の完成を急げ」

学生歌がなかなか完成しないことを問題視した新聞「創作」の記事
  • 入選歌が発表されて一年たつが、曲の募集は立ち消えになっている。
  • 委員長の事務引継ぎの不手際が大きいが一般生徒の熱意のなさにも責任がある。

歴史栄えある名のもとに 

自由の伝統(つたえ)守りゆき

学びの理想科掲げんと

ここにつどえる朋友の

胸に忘れぬ香りこそ

名も紫のゆかしけれ

という歌詞が出来上がって入るが、作者は完成時に発表ということで未だにわからない。
  • 作詞者の働きと事を運んだ人々の労力を無にしてはならない。

新聞「創作」30号(昭和32年11月)「学生歌なるか」

  • 昨年度の第一学期に市川元自治委員長(3月卒)が歌詞を完成させて1年余りたち先号の本紙で完成を主張したが、その後山藤委員長もこころにかけていた。三大行事も過ぎ試験も一段落したので曲の募集を行なう計画を立てた。ふたたび選考委員会を設置して運動する予定。

新聞「創作」32号(昭和33年4月)「学生歌漸く成る」

  • 歌詞が作成されてから3年、そして学生歌作成運動が起こって今年は6年目になるが、漸く学生歌が完成した。作曲家は3Aの池田翼君、作詞者は不明。
  • 学生歌を作るのに、6年の歳月を費やすなど、まさに小石川生徒会のだらしなさを暴露したものであろう。学生歌作成運動を起こした人々は勿論すでに卒業しており、学生歌作成運動があったことを知っているのも、この3月卒業した人々が最後だ。ようやくできた学生歌だが、このまま姿を消す可能性が強い。多くの労力によって出来た学生歌の運命は、歌のよしあしよりも、生徒諸君の心がけ一つにかかっているといえよう。

これを最後に学生歌制定の動きについての情報はしばらく途絶えている。

結末(昭和30年代末)

1957年 (昭和32年) 4月に全学年の同心町校舎から駕籠町校舎への移転が完了した。それと並行するかのように新校歌(学生歌)を制定しようという話は雲散霧消し、下記の昭和30年代末の新聞を見ると以前からの校歌がまた歌われるようになったのであろう。

新聞『創作』第55号(昭和38年5月)に校歌に関する一年生感想が掲載された

  • “豊葦原の中原と…”先輩のあとについて僕たち新入生は、うまいつもりで一生懸命校歌を練習した。しかし総勢五百余名の僕たちの声は、たった一人で歌っている先輩の声量に圧倒されてしまった。僕はみんなの前で大きな声で校歌を教えてくれたあの先輩の積極さに驚いた。歌っている間先生方は一人もいなかった。先輩達だけで教えてくれたのである。僕は中学校の先生の言葉を思い出した。「高等学校という所は何もかも生徒達だけでやる所だ。先生はほとんどノータッチだ。」その高校へ実際に入ってまずそれがしみじみと感じられた。そういえば、あの校歌のプリントもきっと先輩が書いたんだろう。(あまりうまくなかった)

新聞「創作」第60号(昭和39年6月)

  • この高校にも“豊葦原の中原と…”という校歌があります。私達はこの校歌を入学後数日たってから音研の先輩に習いました。でも1,2回先輩について歌っただけでした。それにこの歌は高校生活の3年間のうち歌う機会は数えるほどしかないとのこと。私は校歌とは、いつでもちょっとした時にでも口ずさむことができるような身辺にあるものでなければならないと思っていますので、驚きました。

脚注

  1. 70周年誌