栗山津禰

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栗山津禰 (くりやまつね) は大正11年から昭和5年まで本学漢文科の教員

略歴

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1892(明治25)年11月11日山形市生まれ。

高等女学校卒業後、1914(大正3)年4月上京。国語学伝習所、二松学舎に学び、1916(大正5)年4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)である。

「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。其中第一回入学生の栗山津禰子さん、(中略)電車に乗る間も手から本を離す事がありません。(中略)嬢は入学してから男女を通じていつも定つて首席で持ち切る程の成績でした」[1]

1919(大正8)年に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)に合格、1920(大正9)年3月、東洋大学国文学科を首席で卒業。千代田高等女学校専攻科に就職。

1922(大正11)年3月に、府立五中に国語科漢文教諭として着任された。これは、五中だけでなく全国の中学校(男子校)で初めての女性教諭であった。

五中在職時より東洋大学研究科に在籍し、五中退職後は、東洋大学で文検準備女子国語漢文講座を開催、後に紫式部学会を設立、運営に尽力された。岡本かの子、野上弥生子、円地文子ら女流作家や国文学者らとの交流もあった。都立女子専門学校(後の東京都立大学・現首都大学東京の前身の一つ)の教諭を経て、戦後は東京大学を会場の源氏物語講座など、多くの講座を開講、主宰した。後年の活動については、『紫式部学会と私』(表現社、1959年)にまとめられている。

1964(昭和39)年1月4日、71歳で没した。

府立五中への着任

1922(大正11)年3月に、府立五中に国語科漢文教諭として着任された。これは、五中だけでなく全国の中学校(男子校)で初めての女性教諭であった。

「女学校では漢文を教えることができないからつまらない」「中学校で漢文を教えたい」という思いをもってはいたが、当時は「『女が中学校の教員』と幹事の先生から笑われてしまった」という。そのような時代ではあったが、伊藤長七校長はかねてより「男女共学・教」を訴え[2]、五中の国語漢文教諭の谷岡義賢先生(東洋大学卒。1921ー1924年在職)の斡旋により、五中への採用となった。まだ個人的折衝であった斡旋の段階で新聞に情報がでてしまったために谷岡先生は2,3日休まなければならなかったらしい。

1930(昭和5)年3月、五中を退職。

エピソード

自伝『拓きゆく道』(明治書院、1940年)に、五中在職時のことが綴られている。初めての女性教諭に対し、五中生も紳士的な態度で学んだ様子が記されている。「生徒が極めて男らしく柔順で、しかも学問に熱心なのを知った私はこよなき悦びに満たされたのです。(中略)天下の英才を得て教育する楽しみは孟子許りではありませぬ。私の様なものでも、これ程よい生徒に教へ得られる事をどれ程感謝して居る事でせう。」(「英才の教育」) 

五中を退職した翌年の4月に伊藤長七校長が没する。栗山先生は「五中は、自由でよい学校だとみんなが云った。本当にさうであったから、私のやうな女が、何一つ困ることがなく勤められたことと思ふ。(中略)かういふ学校に最初の女教員として待遇されて勤めてきた私は、再び他の中等学校に就職しようといふ気がなくなってしまった」[3]と述懐されている。

板坂登(旧制5回生)は、50年記念誌上の対談で次のように振り返っている「栗山先生は私どもが習ったんですけどもね。やっぱりわんぱく坊主ですから、栗山先生のことをずいぶんいじめたんですね。一時間をなるべく短くしあげようというんで、いじわるな質問をしたことがあるんですがね。先生がべそをかいた。まだ若かったからね。今から思うと本当にお気の毒なことをしたと思ってます。」

三和一雄(旧制3回生、その後五中の教員も経験)は、50年記念誌上の対談で次のように振り返っている「袂のはしをもたれていかにも恥ずかしげに教えておられましたね。それから、地震がきた時ですね。栗山先生すっかりあわててドアの所へいって開けようとするんですが、開かないんですよ。ところが新聞記事には、悪童どもが騒ぐのに栗山先生はちっとも騒がないとありましたよ。」

関連事項

脚注

  1. 大正8年11月7日『読売新聞』
  2. 「米国に於ける男女共学所見」 1923年5月27日『婦女新聞』
  3. 「あの頃の思い出 蕎麦屋 中学教師の頃(1) 1940年4月21日『婦女新聞』